「本ゲル係数」ということばを考えてみたが、残念ながらすでに存在していた。ググってみると、たくさんのひとが使っている。
そこで、「書ンゲル係数」はどうだ、と検索をかけてみると、ヒットしない。というわけで、これからは、「書ンゲル係数」を使わせていただく。
「しょげる」にも通ずるようで、まさに私にぴったりのことばではないか。
さて、その「書ンゲル係数」というのは、読んで字のごとく、「消費支出に占める本代の割合」のこと。
で、言いたいのは、わたしの「書ンゲル係数」なのだが・・・・・・。
・・・高い。
・・・・・・高すぎる。
怖いので、実数を計算しないことにしている。
ここ十年来、なけなしの金を本代にせっせとつぎこんでいるのだが、「ほとんどビョーキ」(死語)だ。さすがに、借金までして読めもしないドイツ語の原書を買うという石川啄木ばりの無茶はやっていないつもりだけど、このごろは、寝室まで本が浸食しはじめている。
三度のメシより古本、と言ったのは樽見博さんだが、わたしは新本も買うので、三度のメシ、いや三日のメシより本、とでも言いたいところだ。
しかし、そうなってしまうのも仕方のないことだ。
というのは、まず新本はあたりまえで、古本屋や新古書店は見つけるたびに入っているし、めぼしい古本市や古書セールにはかけつけるし、ネットで本を買うのもザラ、果てはオークションでも本を買っているのだもの。
四六時中、といっては大げさだが、それでも、一日の三分の一くらいは、本のことを考えている。
特に、いまだ手に入らない本や、手放してしまった本に思いを馳せることが多い。
それに、今のところ売る気はないのだから、本はたまる一方なのだ。
必要あって、小谷充『市川崑のタイポグラフィ―「犬神家の一族」の明朝体研究』(水曜社)をパラ読み。これは労作である。今度時間のある折に、ゆっくり読まなくては。樋口尚文氏の本はもちろんのこと、府川充男氏の本まで渉猟している。
松竹版「八つ墓村」と前年の角川映画「犬神家の一族」、作品は違えども、一種の競作状態みたいになっているが(そもそも、松竹に八つ墓村の映画化を持ちかけたのは角川氏だったわけだから)、これを製作者側の意図として、「ディスカバー・ジャパン」と関連させて論ずるのは問題ないのかもしれない。でも、大ヒットの要因をことさらに「ディスカバー・ジャパン」と結びつけようとするのは間違っているんじゃないか、といつも思う。その頃はすでにブームも下火になっていたわけだから。……と、これは小谷著とは関係なく、ついでに述べただけである。
『石橋湛山評論集』(岩波文庫)のつづきを読む。湛山は、「自由主義者」というより「現実主義者」ですね。保守派がよく、「右派」というふうに一括されるのを嫌って、そう自称することもあるが、湛山は右派でも左派でもない。今日的な見方では、いわゆる「リベラル」に属することになるのだろうが、それを左派の自己弁護のような意味でも捉えてほしくはない。
湛山も、やはりナショナリストだったわけだけれど、明治期以降の政治家から大陸浪人までをもふくめたナショナリストには、他国のナショナリズムにも理解を寄せる者が多い。現在はこういう人たちのいかに少ないことか。
それとは逆に、日本国内のナショナリズム批判というのは、一種の加害者意識からか、どうも自国に矛先を向けたものばかり横行していて、それゆえに、鄭大均が韓国のナショナリズムを批判した書を岩波書店から刊行するのが、珍しいことのように思われてしまう。そのような他国のナショナリズム批判(とりわけ東アジアに対する)は、保守派の専売特許、というねじれた構造になっている。
それにしても、こうまで理詰めで説得されると、ふつうは参りました、となるわけだけれど、当時は一体何人のひとが、彼のことばに真剣に耳を傾けていたのだろうかと思う。
ちなみに湛山のこの本、高島俊男『本と中国と日本人と』(ちくま文庫)や、津野田興一『世界史読書案内』(岩波ジュニア新書)がとり上げている。
午前中読書。『書斎のポ・ト・フ』を読み、坪内祐三『文庫本福袋』を少し。
午後作業。作業に倦んで齋藤寅次郎の作品を一本。木戸新太郎(キドシン)が出ている。川田義雄の歌も実にユカイ。エンタツ・アチャコは言うに及ばず。楽しめた。
夜中に、日テレ系で「日本人の知らない日本語」。主演の仲里依紗は、『ハチワンダイバー』のメイド役とはまたずいぶん雰囲気が違う。なにかのドラマではメガネをかけた女子高生を演じており、イメージの振れ幅が大きい女優。さらに『ゼブラーマン』の最新作ではボンデージ姿になっていて、なぜか今週号の「週刊新潮」がフカキョンのドロンジョ様、怪物くんに出ていた稲森いずみなども含めて記事にしている。
また、CSで恐怖劇場アンバランスを一話。