必要あって、小谷充『市川崑のタイポグラフィ―「犬神家の一族」の明朝体研究』(水曜社)をパラ読み。これは労作である。今度時間のある折に、ゆっくり読まなくては。樋口尚文氏の本はもちろんのこと、府川充男氏の本まで渉猟している。
松竹版「八つ墓村」と前年の角川映画「犬神家の一族」、作品は違えども、一種の競作状態みたいになっているが(そもそも、松竹に八つ墓村の映画化を持ちかけたのは角川氏だったわけだから)、これを製作者側の意図として、「ディスカバー・ジャパン」と関連させて論ずるのは問題ないのかもしれない。でも、大ヒットの要因をことさらに「ディスカバー・ジャパン」と結びつけようとするのは間違っているんじゃないか、といつも思う。その頃はすでにブームも下火になっていたわけだから。……と、これは小谷著とは関係なく、ついでに述べただけである。
『石橋湛山評論集』(岩波文庫)のつづきを読む。湛山は、「自由主義者」というより「現実主義者」ですね。保守派がよく、「右派」というふうに一括されるのを嫌って、そう自称することもあるが、湛山は右派でも左派でもない。今日的な見方では、いわゆる「リベラル」に属することになるのだろうが、それを左派の自己弁護のような意味でも捉えてほしくはない。
湛山も、やはりナショナリストだったわけだけれど、明治期以降の政治家から大陸浪人までをもふくめたナショナリストには、他国のナショナリズムにも理解を寄せる者が多い。現在はこういう人たちのいかに少ないことか。
それとは逆に、日本国内のナショナリズム批判というのは、一種の加害者意識からか、どうも自国に矛先を向けたものばかり横行していて、それゆえに、鄭大均が韓国のナショナリズムを批判した書を岩波書店から刊行するのが、珍しいことのように思われてしまう。そのような他国のナショナリズム批判(とりわけ東アジアに対する)は、保守派の専売特許、というねじれた構造になっている。
それにしても、こうまで理詰めで説得されると、ふつうは参りました、となるわけだけれど、当時は一体何人のひとが、彼のことばに真剣に耳を傾けていたのだろうかと思う。
ちなみに湛山のこの本、高島俊男『本と中国と日本人と』(ちくま文庫)や、津野田興一『世界史読書案内』(岩波ジュニア新書)がとり上げている。
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